伊月くんが振り向いて、こちらを見る瞬間が好きだ。視線がゆらめいてすうっと流れて、その目が、私の上で止まる。夏なら薄青の空、冬ならまだ紺の残る空が、ぼんやりと伊月くんの瞳に影を落とす。それから、伊月くんは少し口の端を持ち上げて、ゆっくり微笑む。 おはよう、さん。 その瞬間が、たまらなく好きだ。私はほとんど呼吸を止めて、伊月くんのその一連の所作を目に焼き付ける。まばたきさえ忘れるくらいに。だから、いつも途中で気づいても、同じ電車の中で見かけても、学校にたどり着くまで、きっと声はかけないでいる。 「今日も勉強?」 「うん。伊月くんも、今日も朝練?」 「そう」 「がんばってね」 「ありがとう。さんも」 ひらっと手をあげて、背中を見せる。この、たった数分のために、毎朝はやく起きていると言ったら、彼は笑うだろうか。教室にひとり座って、勉強なんて、するはずもない。形ばかり机の上に広げられたノートの、真っ白いページの上には、まぶたの裏の残像が焼き付くばかりで、数式も漢字もアルファベットも並んでいかない。それに気が済むと、鞄の中から本を取りだして広げたり、携帯の画面を眺めたり。そろそろ、毎朝学校で勉強してるのに、成績あがらないのね、ってお母さんに言われてしまうかもしれない。 天気のことばかり、よく気にするようになった。朝から晴れている方がいい。でも、曇りの日の伊月くんの瞳は、薄く膜をはったようにぼやけるので、それもいい。雨の日だってバスケ部は練習があるから、傘を差して私も早くに電車に乗る。伊月くんは雨でも晴れでも、朝練のある日は必ず規則正しく、同じ電車に乗っている。そういう性分なんだろう。対して私はもともと、毎日同じ時間に家を出るような、几帳面な性格ではなかった。朝練にだって縁がない。気づけば私の毎日は、伊月くんだけを軸にしてくるくると自転している。 そういうある日、私は風邪を引いて学校を三日も休んでしまった。熱にうかされてぐらぐら揺れる、不定形の夢の中で、伊月くんに何度か会った。私と伊月くんは、動けば袖が触れそうな距離で並んで歩いていて、あれはたぶん水族館にいたんだと思う。極彩色のおかしなクラゲが水槽の中でゆらゆら泳いでいた。 目が覚めて、平熱近くまで下がった温度を示す体温計をぼうっと眺めながら、伊月くんに会いたい、と強く思った。 「伊月くん!」 いつものように後ろから呼び止めた伊月くんは、いつものようには微笑んでくれず、そのかわり目を丸く見開いた。 「さん」黒いきれいな目がすうっと細められる。 「しばらく休んでたよね。風邪でも引いた?」 「うん。もう大丈夫だけど」 「そっか。いつもの電車に乗ってないから、心配してたんだ」 伊月くんはようやくいつものように優しく笑う。心配してたんだ、という言葉の甘さに、ふと涙ぐみそうになって、あわててありがとう、と笑ってみせた。夢の中、すぐ隣を歩いていた伊月くんの、穏やかな顔を思い出す。あの、極彩色のクラゲたち。 「ていうか、伊月くん、同じ電車に乗ってるの気づいてたんだね」 「ああ、うん」 「気づいてないのかと思ってたよ」 「朝ここで、さんが後ろから伊月くん、って呼んでくれるのが好きだった、か、ら、」 はっとしたように口をつぐむ。白い頬に、少しずつ血が通う。「だから、気づかないふり、してたんだ」口元をおさえた細い指の隙間から、伊月くんはゆっくり、それでも決然として、言葉を吐き出した。 目元が熱くなって、風邪を引いていたときのように、目の前がぼやけて揺らいだ。いま、伝えなきゃ、となにかが背中をたたいている。 「私も、伊月くんが振り向いて笑ってくれるのが、好きで、」 どうしよう、一歩も、動けない。二人の間に通っているものが、ひりひりと頬を灼いた。伊月くんの大きい黒い目に、私の後ろの薄青の晴れた空が、映っている。世界中のどんなものよりも、いまこの瞬間、それが途方もなく美しいと思った。 泥と梨の香月二十日さんからいただきました。ありがとうございます! |